<第153回例会>
シンポジウム『穀物の生産から消費に至るまでの現状』
日時 2013年2月2日(土) 13:00〜17:20
場所 大阪府立大学 植物工場研究センター
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特別講演
「ダチョウに魅せられて産学連携、大学活性化に結び付けるまで」
京都府立大学 動物衛生学研究室
特任教授 足立和秀 氏
『ダチョウが人類を救う』。あまりピンとこない人が多いと思いますが、それを実現させようとしているのが、私たちの研究グループ(京都府立大学・生命環境科学研究科・動物衛生学研究室)です。ダチョウの卵から優れた抗体を低コストで大量に作り出すことに成功し、その技術を使って病原体防御用素材、化粧品、食品など様々な商品の開発を行っています。
抗体とは、生き物の体内に入った細菌やウイルスなどの異物(これを抗原という)に対して反応し、結合する働きをもつタンパク質の一種です。おもに血液中や体液中に存在し、免疫力を発揮して、抗原から体を守る働きをします。抗体は体から取り出しても機能を発揮できることから、特定の分子を検出するための診断薬などに利用されています。ふつう、抗体はウサギなどの哺乳類に作らせ血液から精製しますが、その量は少なく、生産コストも驚くほど高い(100マイクログラムが数万円)のが現状です。抗体の利用は研究や医療など限られてしまいます。
鳥類には、血液から卵の中に抗体が移動しヒナ鳥を病原体から守る免疫システムがあります。ダチョウは感染症に強く、巨大な卵を年間100個産みます。さらに寿命が60年以上と驚くほど長く生きるのです。つまり、優れた抗体を作るダチョウを作れば、卵の中から大量の抗体を長期間継続的に得ることができるのです。結果として、ダチョウ卵黄より従来の4000分の1程度の値段で抗体を提供することが可能となりました。これにより、抗体の応用分野を劇的に広げることが出来ると信じています。
これまでに、インフルエンザウイルスに対する抗体を大量に作製することに成功しました。また、これらの抗体が高病原性鳥インフルエンザウイルスH5N1や新型インフルエンザウイルスH1N1の感染を防御できることも数々の感染実験により実証しました。すでに、ダチョウ抗体を使ったマスクや空間清浄機などが製品化され、インフルエンザ防御用として多くの病院などで使用されています。さらに、鳥インフルエンザウイルスの予防薬・治療薬としての研究開発も急ピッチで進めています。  
『ダチョウが救世主になる日が来る!』と頑張っているのですが、飛び蹴りされたり、激突されたりと生命の危機を覚える毎日でもあります。そんな雰囲気をこの講演で感じていただければ幸いです。
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「稲のルーツとコシヒカリより美味しい米」
総合地球環境学研究所
副所長 教授 佐藤洋一郎 氏
イネは今から1万年ほど前に中国の長江流域で誕生した。野生イネに人間が改良を加えたのである。このときに生まれたイネは今のjaponicaのイネの直接の祖先と考えられる。これが日本列島に伝わった時期については定説はないが、古く見積もると4000年以上前(縄文時代の中期から後期)、新しく見積もると3000年前(弥生時代の開始の時期)などの説がある。水田稲作の渡来の時期は後者の時期に一致する。このときに渡来したのはいわゆる水稲(分類学的には温帯japonica)の系統であったと考えられる。複数のDNAマーカ(SSR)の分析によると、渡来後のイネには強いボトルネックの痕跡が認められ、渡来したイネの集団が以前考えられていたよりずっと小さな集団で来ていたことがわかる。その後も選抜は続いた。明治初期には4000の品種があったが、その数は今では200を割っている。20世紀にはいって国家的品種改良が進み、できた品種には農林番号が振られることとなった。この過程で少数の限られた品種が繰り返し交配に用いられ、多様性はぐんと低下した。1956年に改良されたコシヒカリは農林100号であったが、その親は農林1号と農林22号である。
 最初、品種改良は、多収性に重きを置いてすすめられた。しかし米余りや技術の限界などによって多収性に陰りがくると、今度は品質(あるいは食味)が追求されるようになった。このときに注目を集めたのがコシヒカリであった。1995年に食料基本法が施行されると米の価格はマーケットの自由裁量にまかされることになり、コシヒカリはじめごく少数の「良食味品種」がぐんと注目を集めるようになった。そしてこれを片親にする品種改良が進んで、多様性は一層低下した。
 コシヒカリが生まれて半世紀。いまその寿命が来ようとしている。もとになる種子がすでに枯渇しているからである。また偽コシヒカリの出現などにより、米に対する社会の感覚も変わった。今では産地や栽培方法に注目した地域ブランド米が勢いを見せている。しかし、コシヒカリ主導の時代が完全に変わったわけではない。私は、料理や食べ方に応じた品種の開発や、自分たちが自分たちでデザインして作る新たな品種の開発を提唱している。
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「東南アジアにおける穀物生産と小麦粉業界の歴史」
豊田通商アジア・パシフィック社
豪亜極 食料部門長 三木重昌 氏
東南アジア諸国に於いては、熱帯・亜熱帯性気候及び各国の土質条件から、ミャンマー中部で一部小麦生産が行われている以外は、伝統的にコメ・さとうきび・キャッサバ・コーンの生産が主であり、これら東南アジア産の穀物を直接調理・加工した主食と、同区域で生産されるパーム油や各種香辛料を使って魚類・肉類を調理した副食、それに野菜とを組み合わせた各国毎の自給自足型伝統料理、つまり今日で言うところのタイ料理・インドネシア料理・マレー料理・ベトナム料理等が現代においても食卓の主流を占めていることは疑う余地の無い事実です。
他方で、古くは戦前の欧米諸国から東南アジアへの小麦粉輸出、更に1950年代を端とする英国・スイスの製粉技術・設備の東南アジアへの導入が、「小麦粉を主原料とする粉食文化の創世」「東南アジアでの製粉会社の成立」に貢献し、インド風ナンや中国式万頭、地元の伝統的な米麺等の粉食文化を模倣した形で各国毎に小麦粉原料由来の麺・パン文化が形成されていきました。こうした小麦粉由来の食品の普及・発展には、設立した製粉会社の自助努力だけでなく、元々小麦産地国として自国では粉食に慣れ親しみ、東南アジアに移民として渡って来た華僑・印僑の粉食文化の強い影響があったと想像出来ます。
70年代に入り、各国で欧米式生産ラインを導入したホールセール型ベーカリー企業が進出し、80年代には共存・発展する形でリテール型ベーカリーも街角に姿を現し始めました。リテール形ベーカリーについては日本・香港・台湾で成長しているベーカリーがその模範となりましたが、副資材調達の難しさや製パン技術の未熟度からその技術レベルは極東アジアに型を並べる程には至らず、ホールセール型ベーカリーが主導する形で華僑以外の各国国民にもパン文化が序々に浸透していったのです。
更に80年代後半に入ると即席麺の生産が本格的に始まり、小麦粉需要は飛躍的に拡大し、インスタント・ヌードルは各国で第二の国民食を呼ばれるレベルにまで広く普及していきました。またパンにおいても、90年代に入り冷凍生地やミックス生地の導入、副資材の充実、更には日本のリテール・ベーカリ企業の本格的な市場参入を受け、大都市圏を中心に製パン技術の向上が見られ、現在にまで継続しております。
本演では、東南アジアの穀物の将来需給について統計的側面から推量していくと共に、東南アジアの製粉企業の発展と歴史を、小麦粉の需要家である製パン・製麺業界の変遷とも照らし合わせながら、なるべく判り易く解説していきたいと考えております。
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「総会」
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「植物工場見学」
大阪府立大学大学院 生命環境科学部
助教 和田光生 氏
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大阪府立大学 植物工場研究センター様 ありがとうございました。



懇親会の様子


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